年初に「食」を考える②

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前回のブログで、ドラマ「愛の不時着」に出てくる家族的共同体のつながりで食事するシーンが日本人の関心を呼んだのでは、と書いた。

そして、「家族的共同体による共食」という場を喪失してしまった日本人が憧れとして心に焼き付けたのではないかと。

一方、日本人はちゃぶ台で一緒に食事をするのは昭和初期からで、意外に最近のこと。

それまでは、一人ずつお膳を使って食事中は黙って食べる。食事中にしゃべるのは行儀がよくないといわれていた。

コロナ時代の食べ方は、共食ではなく個食のほうが感染リスクがなく推奨される。

そんな個食に焦点が当たるとき、前回紹介した頭木弘樹著『食べることと出すこと』は考えさせられる。

著者は、大学生のときに潰瘍性大腸炎になり、食べると下痢になり血便が出て絶えずトイレに行きたくなり漏らすこともある、という言葉では表現しがたい難病に襲われた。

そして「食べることと出すこと」を身体の直接的な体験を通じて徹底的に考える、希な本である。

そういう人が共食の輪に入ることはできそうにない。共食とは、同じものを食べることで関係が深まるという観念である。

だから、「美味しいから」といって一緒のものを食べようと強要することになる。食べられない著者は仲間には入れない。

食べられない人を排除する食事共同体はどうなんだろうか、と考えてしまう。
なんとか、コロナ時代のコモン(共有地)の再生に向けた食事共同体の展望を見い出せないか。

そこで、事情を察知したなら食べられない人も同じ輪に入れて(お茶を飲むだけでも)、食を囲んでおしゃべりの仲間となることを許容することが、会話ではなく対話ではないか。

緩い関係でおおらかに共有し信頼関係を築ければ、一層楽しいに違いない。食を囲むだけで、人は間違いなく元気になるのだから(飲めなくても酒席が楽しいと同じ)。

そして、さらに考える。日本人の昔からの膳で食べる個食は、一人で食べていても食材を作ってくれたお百姓さんや料理してくれた人たちに感謝の思いをもっていただくというものではなかったか。

黙って食べるということは、その人たちに感謝して一緒に食べるという「深遠なる所作」ではないか、と思うのだ。

私は「愛の不時着」を見終わって、「その食事のシーン」から日本人が忘れている家族的共同体の良さ、そしてコロナ時代の新たなコモンの再生に向けた信頼関係の構築
さらには昔からの日本人が持つ個食の所作の深い意味を考えている。

浅学の身、それが正しいかはわからないし思い込みとも思うが、自分で考えることに意味があると思っている。

ところで、妻は一人で「愛の不時着」を私より大分遅れてマイペースで見ている。最後まで見て欲しい。

そして、気分も「不時着」ではなく「安全着陸」してほしいと切に願っている。

この記事を書いた人

長谷川 正之
長谷川戦略マーケティング研究所所長

1955年生まれ、長野県埴科郡坂城町出身。長野県信連勤務後、政策研究大学院大学で公共政策修士を取得。長野県や上田市で統一ブランドの創設や農産物マーケティングを推進。また、小学校PTA会長や地域活動にも積極的に取り組む。現在、中小企業診断士・公共政策修士として「長谷川戦略マーケティング研究所」を立ち上げ、企業や行政のマーケティング支援に従事している。落語鑑賞が趣味で、「上に立つより前に立つ」や「やってみなければ幸運にも巡りあえない」という言葉が好き。
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