「思いがけず利他」

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新自由主義は前からイヤだった。
弱肉強食の市場経済を是として、格差拡大社会を形成した元凶である。

個人は自己責任を問われ、コロナ禍のなか、個人と個人が分断され、支え合う人間関係は希薄化していく。

かといって、近頃の企業の社会貢献活動やSDGsも、自らの利益のためが見え見えで、しらけてしまう。

そんな時、最近話題となっている中島岳志著「思いがけず利他」を手に取ってみた(以下は私の解釈)。
まず、ページをパラパラめくると・・・

「利他は過去からやってくる」「利他は未来からやってくる」のフレーズが目に入ってくる。

エエエ?なに?真逆のことが繰り返し出てくる。

これはどういうこと?ややこしい話の予感がするが、とにかく読んでみる。

【利他は発信者と受信者の立場で異なる】
行為をした「発信者」と行為の「受信者」にとって、利他として現れる「時」は真逆になる。

→エッ? 私には、すぐにはワカラン。

「利他は未来からやってくる」とは・・・発信者は、自分の行為が利他的であるかどうかは、その時はわからない(未確定)
相手のために利他的思いでやったことでも、受け手にとっては迷惑がられることが往々にしてある。

利他的行為とは、受け取る側が時の経つなかで気づくことである。
ということは、発信者にとって、「利他は未来からやってくるもの」なのだ。
やったときはわからない。→ナルホド!

「利他は過去からやってくる」とは・・・受信者(受け手)が、相手の行為のありがたさに気づき、「利他」として認識するとき。

実際に、私が小学校の先生のある一言を「ありがたい」と気づいたのは、10年たってからだった。

気づいた時、受け手の私は先生の一言を「利他のことばとして認識」し、先生を利他の主体に押し上げることができたのだ。
利他は受け取られたときに発動する→ナルホド!コレハワカッタキガスル!

そこから、著書ではいろいろな話が展開されるが、私は二つのことに関心をもった。

【発信者の何気ない偶然の行為が利他を生む】
発信者を利他の主体にするのは、どこまでも受け手側である

発信者がいくら利他的に思ってほしい行為も、ほめられたいとか、地位や名誉を得たいという利己につながっているものは受け手に見破られてしまうだろう

一方、相手のためにやったことでも受け取ってもらえず、空回りするかもしれない。そんな思いに支配されると、生きることに消極的になるかもしれない。

しかし、自分の口から出た何気ない一言が、受け手の人生を大きく進展させることはどう考えるか。

一言発せられた瞬間には、その言葉がいかなる価値を持つかはわからない。
しかし、今という偶然性は常に受け手の未来の「気づく」可能性につながっている

「やってみなければ幸運にも巡り合えない」のことわざに似ていると思う。
丁寧に精一杯人と関わって生きていけば、「思いがけず利他」がやってくるのだ

【受信者が死者と対話するとき利他がやってくる】
一方、受信者にとって、過去からやってきた利他の主体者が亡くなっている場合が往々にしてある。

その死者からの行為を利他として起動させるには、死者を弔い「気づくこと」である。
死者を弔い対話するとき、「思いがけず利他」を受け取る

そして、まだ見ぬ未来の他者に向け発信しなければならない

コロナ禍の今、新聞のおくやみ欄には、多くが「葬儀は家族葬で行った」「近親者のみで行った」とある。
一般的に、葬儀への関心が薄れてしまわないか

私は、生前関わった方には改めて心でしっかりと対話をし、受け手として利他に気づき感謝する人でありたい。

年末、年賀状をしっかり書き、宛名の方との関りを思い起こしつつ、「思いがけず利他」を受け取れれば嬉しい。

コロナ禍のなか、新自由主義なんぞ過去の遺物。

私たちは、過去から未来へ人と人をつなげる「利他」を基軸に、新しい「共助」の仕組みを作っていこうではありませんか

この記事を書いた人

長谷川 正之
長谷川戦略マーケティング研究所所長

1955年生まれ、長野県埴科郡坂城町出身。長野県信連勤務後、政策研究大学院大学で公共政策修士を取得。長野県や上田市で統一ブランドの創設や農産物マーケティングを推進。また、小学校PTA会長や地域活動にも積極的に取り組む。現在、中小企業診断士・公共政策修士として「長谷川戦略マーケティング研究所」を立ち上げ、企業や行政のマーケティング支援に従事している。落語鑑賞が趣味で、「上に立つより前に立つ」や「やってみなければ幸運にも巡りあえない」という言葉が好き。
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