「『能書き』よりも『農書き』」(自選ブログ2)を読み返す!

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今回は、2016年6月15日のブログを読み返してみる。
                                            

先日、農業に携わる皆さんと話をしていて、真面目に「長谷川さんは、正直なところ、農業をどう思いますか」と聞かれ、直感的に私はこんな返し方をしました。

「少し離れて、日本人として農業の現状やその力を見直したらどうか」。
私に、農業の学術的な知見などありません。

ですから、世の中を敢えて「農」という価値でデザインしてみたらどうか、ということです。

具体的には、「のう」のつく漢字熟語を「農」に置き換え、日本人として新たに農業の実態や可能性を感じてみるという、シンプルでくだらないやり方(多くの方がそう思うでしょう)です。

以下、紙に書きながら話した中で、ウケたものを記します(約5割のウケ、イチロー以上・・冗談)。
軽~く読んで下さい。

改めて、気楽に思考実験をやってみると、農に置き換えると輝く言葉がたくさんあります。

能力主義 → 農力主義
「行き過ぎた能力主義」という言葉があります。何でも能力として評価すること。

人と人をつなぐとか、バランス感覚や共感力という能力は、どう評価するのでしょうか。
かえって、能力主義の徹底で組織の機能や信頼が損なわれた事例が少なからずあります。

一方、農の力については、食べるものを作る力と、自然や風土と折り合いを付けながら、コミュニティ(ネットワークを含め)で農を遂行する力を併せて「農力」と捉えるならば、今後の地方の展望は少し明るくなる、と私は思います。

この農力を基底にした暮らし=ライフスタイルを指向する考え方を、新たに「農力主義」と名付けたらどうでしょうか。

20世紀は能力主義、21世紀が農力主義です。

農耕民族 → 農好民族
永らく若者から、農は儲からないと不人気でしたが、昨今、農は「命を育む職業」という側面に気づく若者が現れ始めています。

異常気象や環境変化に直面し、世界的にも食糧不足が叫ばれる中、「戦いが好きな民族」よりも、農(食)の価値を世界の人たちとシェアできる農好民族のほうが、世界から愛されると思います。

NOといえる日本人 → 農といえる日本人
私の立場は、TPP反対、特にISD条項など問題外でNO。

しかし、対外的には、YESかNOかの2元論では言い切れない多面的・重層的な問題が多くあります。

その時、少なくとも、基本に「農」を据え、相手の他国にも農があり、命を育む同じ価値観を持つ人たちに思い至るのは、「農といえる日本人」だけです。

脳梗塞  → 農拘束
脳梗塞とは、脳へ血液を送る血管(動脈)がつまり、その先の大切な脳細胞が死んでしまうことで、体の機能をマヒさせ、死に至らしめる重大な病です。

農も縛って拘束すると、担い手がいなくなり荒廃地となって、農死となります。

そこで、多業態から自由な発想を持つ若者達の参入を図ることで、農村という閉鎖的な共同体が風通しの良い雰囲気に変わることが期待できます。

2次・3次事業者との連携など、付加価値のある農を地域で展開し持続可能にしていきたいですね。

帰納法  → 帰農法
帰納法とは、個別的・特殊的な事例を積み重ね、そこから共通事項で括り一般的・普遍的な規則や法則を見出そうとする論理的推論の方法です。

一方、帰農ですが、かつての高度経済成長下、農村の余剰人口は都会へ流出し離農。

しかし、デフレ不況長期化で他産業・業態に従事していた人たちが、帰ってきて農業に取り組む姿(定年帰農を含む)が少しずつ目につくようになってきました。

他産業のノウハウを持って帰農する人達の事例を積み重ね、そこから地方における一般的・普遍的な農を基軸とする社会の在り方を見出そうとする「帰農法」により、地方・農業の活性化にチャレンジしていきたい

尊皇攘夷論 → 尊農上位論
ペリーの黒船来襲等、外国の脅威にさらされていた江戸時代末期、天皇を尊び、外国勢力を撃退させて日本を守ろうとする過激な思想が尊皇攘夷論でした。

21世紀に入り、TPPや農産物の輸出など、農を巡る国際的環境が大きく変わろうとする今、日本の進む道とは・・・。

それは、国民の必需である食料を生み出す「農」を尊び、他国とも協調・共感できるその価値を(最)上位に置くことから導けると信じます。

農を巡る他国との貿易交渉等は、どこかで折り合いをつけると覚悟するところから、展開が見えてくると思います(武力を背景とすると、あらぬ方向に行きかねません)。

他にも・脳下垂体→農家衰退 ・悩殺→農殺 ・感応度→環農度 など話しましたが、省略。

実際は、少ししゃべり易い飲み物を飲んでいたせいか、熱い雰囲気で盛り上がりました。

ここでの気づきは、「NO」ばかりの否定からでは、農は何も生まれません。

様々な「のう」を「農」と置き換え意味を見出し、 更にノウハウ(know-how:専門的技術や知識)よりも「ノウフ―」(know who:誰が何を知っている)の共有で、人脈・ネットワークづくりへ、 ですネ。
                                    
【「尊農上位」を唱える】
6年前の文章だが、執拗に「農」という漢字にこだわって書いている。

遊び心もあり、余裕があったと我ながら少し感心する。
①~⑥までの漢字で、今の私が気分的に使いたいと思うのは・・・「尊農上位」

音読みだと時代錯誤だが、漢字を見るとこれからの時代にマッチしていると・・。

でも、私が6年前にブログで主張した「尊農上位」ということばは、ネットでいくら検索しても出てこない、残念。

私は一人孤独に主張していくつもりだ!

さて今、狭いながら庭の畑で我が夫婦2人が食べる農産物を作っている。
採れすぎれば近所や介護施設等にお裾分け。

その過程で、野菜からいろいろなことを学ぶ。特に生き物の生命力は凄いと感心することが多い

農業生産者の若者とも付き合っていて、応援している。
有機栽培で作るミズミズシイ食感には感動もする。

【「尊農上位」な暮らし】
最近の私のフェイスブックでは、畑で繰り広げられるこんなシーンをアップしている。

借りている隣の畑は大雨ですぐ水没。プール畑と呼んで、その都度ポンプで吸い上げる。

夫婦による協働作業で、ポンプ隊1号(妻)2号(私)と自称し、1号の命令で連携して動き効率的だ(笑)。

そして今年は、じゃがいも、玉ねぎ、枝豆、ブロッコリー、ズッキーニ等がよく実った。


途中、小さなひまわりが咲いていて家の中でも一緒に過ごす。

オクラの花は清楚で美しいし、ジ~ッと見とれてしまう。汚れた心が少しは浄化されるようだ。

今年はスイカが大豊作。狭い畑に50コはとれ、方々に配って好評だったが、ミツバチの力が大きい。感謝。

そしてスイカの生命力に驚く。勝手に狭い場所や南天の枝からぶら下がって育っている。


そして近くの田んぼにはこんな案山子も。

「豊かな農ある暮らし」を楽しみながら、新たな「農書き」を考える生き方も捨てたもんじゃない。

この記事を書いた人

長谷川 正之
長谷川戦略マーケティング研究所所長

1955年生まれ、長野県埴科郡坂城町出身。長野県信連勤務後、政策研究大学院大学で公共政策修士を取得。長野県や上田市で統一ブランドの創設や農産物マーケティングを推進。また、小学校PTA会長や地域活動にも積極的に取り組む。現在、中小企業診断士・公共政策修士として「長谷川戦略マーケティング研究所」を立ち上げ、企業や行政のマーケティング支援に従事している。落語鑑賞が趣味で、「上に立つより前に立つ」や「やってみなければ幸運にも巡りあえない」という言葉が好き。
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